関西マラルメ研究会 書評
12. 加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店、2007年)
【評者:岩津 航】(2008年12月14日)
2008年12月5日、加藤周一が亡くなった。戦後日本を代表する「進歩的知識人」は、その良識によって、たびたび毀誉褒貶に晒されてきた。とくに晩年の「九条の会」の活動は、暴力肯定的になってきた世論に対抗するものであり、それだけを取り上げて「時代遅れ」と見なす人もいた。海老坂武はかつて、加藤周一が一度も時代の寵児にならずにずっと読まれていることこそ稀な事態であり、彼の主張の強さと一貫性を証明している、と指摘したことがあるが(『戦後思想のアイデンティティ』)、僕と同世代で彼の著作に親しんでいる人はあまり多くない印象がある。それだけに、訃報に接して僕が感じた淋しさを分かち合える人が周りに少なく、残念である。
加藤周一は血液学の専門家として原爆調査団に参加し、パリに留学しながら、さらに広く文明のあり方を考え、帰国後しばらくして医師を廃業し、評論家として活躍した。いや、評論家としての活動は、すでに『1946・文学的考察』(中村真一郎・福永武彦と共著)で始まっていた。この連載評論は、戦争に参加しなかった20代の青年たちの知的客気に満ちていて、強い共感と反感を呼び起こした。とりわけ、のちの彼からは想像しにくい攻撃的な措辞が特徴的で、芸術を愛好するノンポリの知識階級を「フォックステリアの如く小奇麗で低能な都会の星菫派」と批判した連載第1回目の記事は、辛辣を極めていた。
彼を突き動かしていたのは、正義感だった。しかし、それは単なる義憤ではなく、常に社会に傷つけられた個人の悲しみや怒りに基礎を置くものだった。他者の悲劇を自分のものとして受け止める想像力と感受性を豊かに備えた人だったが、それを可能にしたのが文学と芸術である。加藤周一が文学と同時に政治を語って已まなかったのは、そのためである。個人が集団の価値観と対立したとき、あるいは集団が個人を抑圧しようとするとき、どのように考え、行動し得るか。それこそが彼の関心事であり、それゆえマラルメを語ること少なく、鎌倉仏教の改革者について語ることが多かった。彼は本心では、江戸時代の文人のようにひっそりと自分の愛好する者だけについて語りたかった面があるように思われる(田能村竹田や菅茶山の書名をもじった朝日新聞の連載評論の題名からもそれは察せられる)。しかし、それを奪いに来るものを見過ごしていてはならないという危機感から、時事的な発言も辞さなかった。
もうひとつ、文章家としての加藤周一について述べておきたい。明晰で論理的な文体については、たびたび指摘されてきたところであり、教科書や入試問題にたびたび取り上げられた理由でもあった。池澤夏樹は加藤周一の日本語散文を一つの理想と看做していたことを告白している(『加藤周一セレクション1 文学の擁護』解説)。日本語だけでなく、英語、フランス語、ドイツ語を自在に操り、論文を書き、世界中の大学で講義し、各国の知識人と語り合った。一回限りの講演と違い、連続的な講義では、全体の構想と各回の内容の釣り合いを考えなければならない。加藤周一の散文は、常にこの全体と部分の関係が明白で、なぜいまこのことを論じているのかということが、常に見えるようになっている。ただ、これだけなら科学的分析に徹しているということに尽きるかもしれない。そこに独特のユーモアや皮肉がこめられたとき、文章家としての加藤周一の真骨頂が発揮される。たとえば、『日本文学史序説』で芥川龍之介における英書の影響を論じて、「丸善が彼をつくった」と述べるときこそ、他の誰にも書けない明晰さを感じる。
今回は追悼の意をこめて、加藤周一の遺著ともいえる本書を取り上げることにする。日本文化は全体よりも細部を、歴史よりも現在を、彼岸よりも此岸を志向する傾向にある、ということは、すでに『日本文学史序説』や美術論『日本その心とかたち』で詳しく論じられたことである。その論旨をまとめたのが本書である。そのため、話題は広く、叙述は簡潔で、濃密な議論が展開されている。
題名にあるとおり、時間と空間の概念分析が本書の中心を成している。時間について言えば、日本文化のなかには「始めなく終りない直線=歴史的時間、始めなく終りない円周上の循環=日常的時間、始めがあり終りがある人生の普遍的時間」があり、「その三つの時間のどれもが、『今』に生きることの強調へ向う」と指摘する。円周上の時間とは、要するに四季である。古今集以後、勅撰和歌集が四季別に排列されていることは注目に値する。季節の移り変わりのなかで自分がどこにいるかが主題になり、そこに繰り返すことの出来ない人生の時間を重ね合わせるのが、和歌の常套である。「今」への集中は、連歌や随筆という形式の発明にも反映されている。連歌は一貫したテーマをもたず、即興的に変奏されていくところに面白みがあり、随筆はまさに「徒然なるままに」書かれる。こうした「今」への集中は、日本の音楽や芝居にも見られる。能楽の「間」は前の音と次の音との連なりによってのみ構成される。歌舞伎や浄瑠璃は有名なくだりだけを抜粋して演じる。
空間については、「ここ」への集中が顕著となる。日本には伝統的に都市計画というものが少なかったことは、よく指摘されるところだ。グリッド型の平安京は例外で、江戸のようにフラクタル型に発展した都市構造が主流である。要するに成りゆき任せであり、そのときどきの必要を洗練させて、様式的な統一には気を配らないのが日本的な空間配慮である。だから、一杯の茶碗が美しくても、その美的感覚が食堂全体には反映されていなかったり、建物は美しくても、町並みとの調和がとれていなかったりということが、日本では珍しくない。かつ、誰もそれを気にしないのは何故か、という疑問が、パリのような強い美意識をもつ町に暮らしたことのある加藤周一の脳裏をよぎったのは当然だった。
日本的空間の特徴はほかにもある。日本人は「オク」を重視し、水平面を好み、建増し思想をもつ。オク(奥)とは、私的空間と公共空間を仕切る概念であり、日本建築では、奥に行くほど私的になる。宗教建築でさえ、そうである。五重塔の屋根が中国よりも水平に長く延び、かつ階層の間隔が狭いのは、日本に超越的な垂直志向が弱いことを暗示する。建増しは、上に述べたように「ここ」を繋ぎ合わせていった結果、出来上がる構造であり、思想史上では富永仲基の「加上」の原理に対応するだろう。加藤周一は、富永の再評価の先鞭をつけた研究者でもあり、唯一の戯曲は富永の著作を題材にしている。
加藤周一の文章は、じつはこうした「今=ここ」に集中する日本語作文から遠く離れたものである。彼の思考は普遍性を目指していた。それは現在を歴史のなかで見るということであり、出来るだけ遠くから考察対象の全体を眺める視点を確保することである。なぜ、そうする必要があるのか。それは遠くから眺めた方が、隣接する他の事例と比較し、対象を相対化するのが容易だからである。そうした比較考察を経ない限り、何が対象の特質で、何が一般的な特徴なのか、判別することはできない。比較吟味を踏まえたうえで、なぜそのような特質が生まれるのかという論理的分析を徹底させる。論理は、誰にでも追えるからこそ論理であり、その意味で普遍性を志向する。加藤周一が普遍主義者であると言うとき、僕はそのような論理の力への信頼をイメージしている。
この普遍性への意志は、まさに部分を重んじ、例外を面白がる人には、受け入れ難い断定と見えることがあるだろう。俳句は日本人でなければ分からない、と思っているような人には、加藤流の論理は目障りかもしれない。だが、情緒に訴え、特殊と普遍を混同する不正確な態度が、かつてファシズムを助長したことを目の当たりにした彼にとって、この論理の力は、気分的に暴力を肯定しようとする流れに対する、唯一かつ最大の武器だった。
最後に、詩人加藤周一の書いた「さくら横ちょう」が、中田喜直によって曲を付けられ、日本歌曲のスタンダードとなっていることを付け加えておこう。脚韻を踏んだ詩は、抒情的で、ノスタルジックで、少し粧している。とりわけ「会い見るのときはなかろう」という一節が、いま痛切に胸にこたえる。それは加藤周一だけでなく、多くの戦後知識人が没し、理想を掲げた論理的文章に出会うことが難しくなっていく時代の悲しさに行き当たるからだ。何かを論じるということは無償の行為ではない。その言葉によって自分の何を賭けようとしているのか、そのことが見えない文章は、人を納得させることはできても、説得することはできないだろう。加藤周一を追悼しながら、僕はそのような言説のあり方をも惜しんでいる。
だが、幸いなことに、言説とは一つの型であり、それゆえ別の書き手を見出すことはできる。盟友中村真一郎が亡くなったとき、加藤周一は「中村は漫然と生きたのではなかった。ある原則に従って生きた。その原則は個人を超えて生き続けるだろう」という意味のことを述べていた。僕たちもまた、加藤周一が残した、原則に従って思考し、行動する知識人のあり方を、彼の死後もなお、範とすることはできるだろう。ただし、それを実現するための途方もない努力は、ほとんど真似しがたいものであり、自分がそこに連なることができないであろうということに、いまや焦りよりも淋しさや情けなさを覚えずにはいられないのである。
11. 長田弘『アメリカの心の歌』(岩波新書、1996年)
【評者:岩津 航】(2008年1月9日)
長田弘の『アメリカの心の歌』は、その内容以上に、文体に感動する書物である。作品との係わり方、背景のエピソードの紹介の仕方、そして何より淡々と紹介するようでいて、じつは心の熱を感じる文体、多くの点で僕はこの本に教わっている。
長田弘は1939年生まれ、20代から詩人として頭角を表した。最初は『荒地』派の批判的継承から始まったが、しだいにより柔らかな言葉遣いの詩人に変容していく。詩集『深呼吸の必要』(晶文社)は、映画のタイトルに用いられたこともある。今では、谷川俊太郎と並んで、日本で詩人を主たる生業にしている数少ない人物だ。もっとも、谷川には『マザーグース』や『ピーナッツ』の翻訳の仕事がある。長田も優れた絵本の翻訳紹介に力を入れてきた。また、現代文学の読み手としても優れた批評眼を発揮していることは、たとえば『私の二十世紀書店』(みすず書房)を読めば判るだろう。その彼のもう一つのインスピレーションの源が、アメリカのポピュラー音楽、とりわけカントリ−だった。
アメリカには、人々が共有できるような物語を紡ぐ魅力的なソングライターが数多く存在する。長田はその一つ一つに丁寧に耳を傾ける。「真夜中にレコードに針を落とすと」、イーグルスの背後に『ウォールデン』が見え、ジム・クロウチのなかにロックンロール世代のフォスターが見える。歌は答えではなく、問いかけである。歌は人が自分のなかに携えて持ち歩くものであり、歌は時間をかけて人を動かすものである。長田は耳を澄ませる名人だ。
「じぶんにとってぬきさしならない歌というのがあるのだ。その歌を聴いたことがじぶんのなかの何かを変えたという記憶が、歌のむこうにのこっているような歌だ。聴いてすぐには気づかない。けれども、ずっと後になってから、その歌だったのだと気づく。その歌が最初の歌だったと。その歌を聴くことがなかったら、それからずっとアメリカの同時代の歌に耳を澄ましつづけることは、あるいはなかったかもしれない。」これはジャニス・ジョプリンの唯一の全米No.1シングル"Me And Bobby McGee"についての言葉。エッセイはむしろ原作者のクリストファー・クリストファソンについて書かれている。「歌の言葉が、こころに根を下ろしてしまう。そして時代とともに、木のように、こころのなかにいっそうそだっていくような歌がある。」
とくに印象的なのが、ウィリー・ネルソンのエピソードである。テキサス州の田舎町アボット出身のネルソンは、1995年の初夏、インターステイトの路肩に駐車して眠っているところを逮捕された。眠っていたために、麻薬使用を疑われた。嫌疑はすぐ晴れたが、彼はなぜそんなところに車を停めていたか、ついに告白しなかった。「そこは、小さな町アボットが一望できる場所だった」のである。故郷を遠く離れて活躍していても、彼は自分のルーツを忘れなかった。と同時に、もはや町で暮らすことのできない距たりも、このエピソードは暗示している。そうしたエピソードを、長田は丁寧に拾い上げていく。
バディ・ホリーの最後のバンドでベーシストを務めていたウェイロン・ジェニングスの話も印象的だ。ツアー中にホリーを乗せた飛行機が墜落し、テキサスのロックスターは23歳で他界する。それから20年経った後、ウェイロンの"Love of the Common People"という曲をラジオで聴いたナヴォホ族の子供たちからリクエストが殺到し、ついに彼らの主催でコンサートが開かれる。終演後、拍手一つ出ないのでがっかりしたウェイロンに、主宰者が駆け寄り、「沈黙はわれわれの最高の尊敬の表現なのです」と言う。見ると、客席の聴衆の目には涙が浮かんでいた。バディ・ホリーの死とナヴォホ族の沈黙によって、ウェイロン・ジェニングスは、ベトナム反戦世代のフォークの騎手となっていく。長田は「アメリカ」と題されたその章をこうしめくくる。「歌のなかに人びとがいるのがライヴだ。ウェイロンに言わせれば、ライヴが歌のオリジナルなのだ。人びとが共有することができるものが、歌だ。」
ロックンロール第一世代より少し上の長田は、しかしロックに拒否反応を示すには、幾分若すぎる世代でもあった。彼は1970年代のアメリカの歌い手たちが、ショービジネスの枠組みを越えて、個人から個人へ歌いかけるスタイルを作り出したことを見逃さなかった。このスタイル自体は、その後クリシェと化して、伝えるほどの中身のない優しげな歌を量産するという弊害を生み出してしまうことになるが、聴き手にとって、歌が限りなく詩に近づく瞬間があるのも事実である。長田は歌の中に詩を見出す。詩が歌われるのではなく、歌われることで詩になるような言葉が、この世にはある。僕もまた、そうした言葉に耳を傾け、慰められてきた一人なので、このことははっきり言っておきたい。ポップスとは一つの詩の形態なのだ。歌とは、繰り返されることを求める詩である。そして詩とは、繰り返されることを求める言葉だ。ロックンロールとは韻律であり、アルバムは音の詩集である。
カントリーではないが、僕にとって最初の詩集といえるロックアルバムも、1970年代に発表されている。ブルース・スプリングスティーンの『ボーン・トゥ・ラン』だ。ロックオペラ風の複雑な構成で、「敗者にあふれた町」を飛び出して「リアル」を求める野心家と、「裏通り」に隠れて「川向こうでの会見」に最後のチャンスを賭ける挫折者とが、最後に生と死の「ジャングルランド」で出会う。2005年に出た『ボーン・トゥ・ラン』30周年記念エディションのDVDで、スプリングスティーンが「あの頃、おれに分からなかったのは、人はどうして苦しむのかということだった。今なら答えが分かる。それは人は苦しまなければならないからだ」とコメントしているのを聞いて、僕はあらためてこのニュージャージーの青年が、ロックンロールで何を表現しようとしていたのか、理解できた気がした。彼は無理解や野望や挫折に苦しむ青年が、今いる場所から動き出そうとする瞬間を歌った。それは疾走するロックンロールの熱を伴わなければ表現できないスピードの詩だった。
大きな野望を抱いていたわけではないが、他人と同じように生きたいとは思わなかった、そんな15歳の少年にとって、スプリングスティーンの歌の主人公は、身近な友人よりも親しかった。「ひとが歌にもとめるのは、親しい他者としてこころに住まわせることのできる、歌のなかの見知らぬ友人であり、知人であり、仲間だ」と長田弘は言う。では、なぜ英語で歌われるアメリカの歌が、僕たちの友人になり得るのか、という疑問については、じつはこの本は答えてくれない。だが、答えは自明だ。ロックンロール以降の英米音楽に親しんだ人なら、どこの国で育とうが、誰でも「アメリカの心の歌」をもっているに違いない。大切なのは、若い頃に聞いた歌を、単なるノスタルジーの道具にしてしまうのではなく、それを聞き続け、自分のなかで育てていくことである。それは若い頃の友人と交流を続け、関係を深めていくことに似ているかもしれない。ブッシュのアメリカに失望しても、僕はアメリカの歌を聴き続けるつもりだ。それが僕の「心の歌」である限り。
10.尹東柱『空と風と星と詩』(伊吹郷訳、影書房、2002年)
【評者:岩津 航】(2007年10月19日)秋になると、尹東柱(ユン・ドンジュ)の詩を思い出す。それは、「季節の移りゆく空は/いま 秋たけなわです」と始まる「星をかぞえる夜」を思い出すということだ。「わたしはなんの憂愁(うれい)もなく/秋の星々をひとつ残らずかぞえられそうです」と詩は続く。しかし、詩人はすぐに星を数えきれないことに気づく。それは彼の「青春がまだ終わっていないから」だ。
星ひとつに 追憶と
星ひとつに 愛と
星ひとつに 寂しさと
星ひとつに 憧れと
星ひとつに 詩と
星ひとつに 母さん、母さん
星の一つ一つが彼の愛惜するすべてのものと同じく、遠くにあって輝いている。すべては彼から遠く、おそらく、まさにそのことによって輝いている。追憶や憧れをじかにつかみ取る言葉をまだ手にしていない以上、彼の青春は終わらない。星を数える夜は、かくして自分の存在の淋しさを認識する夜となる。この星と向かい合う淋しさを、尹東柱は自分の詩の中心に据えた。
誰もが知る「序詩」は、詩人が大学卒業記念に刊行しようと目論んでいた自選詩集の冒頭に載せるつもりで、1941年11月に書かれた。日本へ留学する前の年だ。この詩集は結局発表されなかったが、「序詞」は、現在では尹東柱の詩業全体を要約する傑作として知られている。短いので、全文引用しよう。
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生けとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風にふきさらされる。
この「序詩」を初めて読んだとき、僕はすぐに中桐雅夫の長篇詩『遍歴』の冒頭を思い出した。すなわち、「恥辱はその人の栄光である。」恥を恥と思い、その思いを持続することは、詩人の栄光である。ただし、敗戦直後の期待を自ら裏切っていかざるを得なかった戦後詩人にとっての「恥辱」と、植民地の朝鮮から日本に留学し、福岡刑務所で27歳で獄死した青年にとっての「恥」は、おのずから異なる。最近になって、伊吹郷による全訳詩集『空と風と星と詩』(初版は1984年、記録社)を入手し、再びそのことを考えさせられた。
じつは、僕がこの詩を初めて読んだのは、『星うたう詩人』(三五館、1997年)という本によってだった。同書は尹東柱詩碑建立委員会の編纂による。尹東柱が留学していた同志社大学出身の在日韓国人が中心になって結成され、キャンパス内に詩碑を建てることを目的としていた。研究者の伊吹郷は「序詩」の試訳を提供し、それが碑に刻まれた。ところが、その後、同委員会に賛同する研究者から誤訳を批判された。たとえば「葉あいにそよぐ風」の「風」は、朝鮮人を虐げたファッショ体制の暗喩なのだから、「そよぐ」ような微風ではいけない、といった具合である。伊吹は批判が的を得ていないだけでなく、委員会による詩の読解の中に政治的偏向を嗅ぎ取り、憤慨している。その経緯については、全訳詩集の改版に追加収録されたエッセイに詳しい。
僕もまた、尹東柱の詩は、何よりも抒情詩であり、民族の悲劇よりもまず青年の感傷を歌っているところに良さがあると思う。その感傷とは、独りよがりな甘えではなく、あらゆる希望に対する無力感と、そこから由来する恥の感覚である。「人生は生きがたいものなのに/詩がこう たやすく書けるのは/恥ずかしいことだ」(「たやすく書かれた詩」)と言い、「夜を明かして鳴く虫は/恥ずかしい名を悲しんでいるのです」(「星をかぞえる夜」)と言う。現在の無力感は、過去の喪失感と結びつく。「失くしてしまいました。/なにを どこで失くしたのかわからず/両手でポケットをさぐり/道へ出ていきます。」(「道」)だが、どれだけ歩いても失ったものは見つからない。「見上げれば 空は気羞しいほど碧いのです。」青空はそれだけで完結している。それに対して、人間はさまざまなものを捜し出し、繋ぎ合わせなければ、自分を一つのまとまりとして意識することができない。だから、「わたしが生きているのは、ただ、/失くしたものを探し索めるためなのです」ということになる。
尹東柱にとっての「恥」は、ルース・ベネディクトの指摘した日本文化の「恥」(世間への体面)とは、ほとんど関係ない。キリスト教的な原罪意識とも違う。まして民族意識からも程遠い。それは個人のうちに完結する倫理の問題である。自分があるべき姿を思い描き、その理想像に対して恥じるところがないかを、自らに問うている。だからこそ、尹東柱は何度も何度も星を歌い、風に痛むのだ。星は人間よりも高いところにあり、風は人間の知らないところから吹いてくる。もっと分かりやすく言えば、星は理想だが、人は風に吹かれて、その理想を目指す旅を続けるしかない。茨木のり子は、尹東柱のなかに立原道造との類似性を見出しているが、僕は自選詩集を『空と風と星と詩』と名づけたこの詩人に、いくぶん宮沢賢治や初期の吉本隆明の詩編に通じる資質を感じる(実際、尹東柱は同音の尹童舟の筆名で童話も書こうとしていた)。だが、賢治のようなコスモロジーや吉本のような建築意識は、尹東柱にはないものだった。たとえば、雪についた足跡が消えても、春になって「雪が解けたら のこされた足跡ごとに花が咲くにちがいないから 花のあわいに足跡を訊ねてゆけば 一年十二ヶ月 おれの心には とめどなく雪が降りつづくだろう」という「雪降る地図」の幻想は、あくまで今はいない人への愛着と自然の力への信頼の表現であって、思想闘争のような、より抽象的な世界へ結びついていく必要はない。
尹東柱の読書は、朝鮮詩人を除けば、同時代の日本の詩人とほとんど同じだったようだ。同志社では英文学を専攻し、ヴァレリーやゴッホ書簡集を読み、自らの詩でも「異国の少女たちの名と、すでにみどり児の母となった少女たちの名と、貧しい隣人たちの名」に並べて、フランシス・ジャムとリルケの名前を並べさえした(「星をかぞえる夜」)。彼の蔵書には『立原道造詩集』があり、詩人の弟は彼が北原白秋の詩を暗誦するのを聞いたと証言している。このあたりは、「日帝」(日本帝国主義)に抵抗し殉死した悲劇の詩人としての尹東柱のイメージを裏切る。だが、それはイメージが虚像であるにすぎない。たとえ日本語が押しつけられた言語であっても、詩人ならば日本語の詩的世界に惹かれるだろう。それは日本の詩が「進んで」いて、学習に値するからではなく、詩人とはどのような言語においても芸術があるはずだと考える人間だからである。
韓国で、そして北朝鮮においても、尹東柱は現在でも人気のある詩人である。教科書にも載っており、誰でも名前くらいは知っている。だが、上述の伊吹批判にも見られるように、「抵抗の詩人」という点を強調しすぎるあまり、抒情的な面を軽視されがちな時代もあった。国家形成のために反日教育が必要だった時代に、詩人は利用されたかもしれない。しかし、それは詩をきちんと読まない人にとっての詩人の評価を貶めたにすぎない。その詩は、存在することの淋しさを歌って、限りなく美しい。僕にとっての尹東柱は、一級の抒情詩人ということに尽きる。
9.武満徹・川田順造『音・ことば・人間』(岩波書店、1980年)
【評者:岩津 航】(2007年10月8日)
武満徹が亡くなって、もう10年以上が経つ。僕が武満の音楽を聴き始めたのは、その死後だったから、あの静かな音楽に出会って、もうすぐ10年になる。それでも、聴き返すたびに新鮮である。武満の音楽には、ふと始まって、ふと終わる、風のような気配がある。風はときには過去から吹きつけ、ときには現在を激しく揺らがせることもある。だが、そうしたすべてが、誰も見ていない森のなかでの梢の動きのように、枝に来てまた去っていく鳥のように、静かに、しかし圧倒的な存在感をもって迫ってくる。
文章家としても、武満は独特だった。エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』は、すでにその題名が明瞭に語っているように(しばしば詩から引用された武満の楽曲のタイトルも、非常に明瞭なのだが)、沈黙が内包する豊かさに音がどれだけ近づけるかを考えた名著だ。とくに「吃音宣言」は有名で、既成の形式がいかに思考を抽象化し、人を眠らせてしまうかを、二十世紀後半を生きる作曲家らしく批判し、自分のリズムを求めて音につまずくこと、吃ることを称揚した。
古本屋で入手した本書は、1978年から1979年にかけて雑誌『世界』に連載された公開往復書簡の記録である。アフリカのモシ族文化を研究する川田順造と、邦楽を大胆に採り入れた武満徹との間には、接点がいくつもあった。
第一に、ともに西洋文化の枠組みから出発して、その批判を活動の根拠においていた。川田はソルボンヌで文化人類学を学び、無文字社会であるモシ族のなかに入っていく。学問の方法は対象の見方を制限する。日本人研究者が西洋人の目でアフリカ社会を見なければならない根拠はない。にもかかわらず、その目を通してでなければ、学問は始まらないだろう。一方の武満は、西洋音楽のイディオムに規定された作曲のあり方をどのように乗り越えるかを模索する。「私たち日本人にとっていささか始末が悪いのは、十九世紀に完成されたオーケストラ(オーケストラに代表される近代音楽)の形態が、私たちには完全に過去のものとはなっていないという点でしょう。而も、他の音楽文化、つまり非西欧的音楽への戸口は、同時に、無数と言っていいほどに数多く私たちの前に開かれている。面白くはあるが、そこから生じる困難も一通りのものではないと思います。」(35頁)ブラームスが二十世紀後半に聴いても感動的であることと、ブラームスのような曲を二十世紀後半に書くこととは、別のことである。すでにある音楽の感動を乗り越えて新しい音楽を作り出すための条件は、どれだけ精神を自由にしておくかということに係るだろう。
第二の共通点は、日本文化に関する造詣の深さである。武満は一拍ごとにテンポの異なる能楽の三ツ地や、笛と打物が同時に異なる時間進行をもつことの特異性を指摘し(118頁)、尺八や琵琶の演奏家と接して、「日本人は音によって表現(あらわ)そうとするより、音に聴きだそうとすることが重んじられているのではないか」(246頁)と考える。一方の川田は、自伝にも述べられていたことだが、東京下町の育ちで、幼少の頃から義太夫に慣れ親しんでいた。だから、サバンナでも新内や平曲を聞き、そこからモシ族の「太鼓ことば」に想いを馳せることができるのだ。そこに共通するのは、「ふし」を通して言葉が意味を形成していく過程である。音声と、太鼓の打音と、言葉の意味は、切り離せない状態で同時的に生成されていく。「『ことば』が、詩が、文字を仮の宿として目読されるのではない社会では、『ことば』は、詩は、何よりもまず音であり、声であり、高低や強弱やリズムによって感情の籠められた人間の『いき』であるという自明の事実、そしてそれは、私たちの文字過剰の社会でも、単に忘れられがちであるに過ぎない原始的な真理だったということを、思い知らされたのです。」(62頁) 日本文化は、二人にとって、思考の出発点である。出発点がはっきりしているから、思考にぶれが少ない。
第三の共通点は、自然に対する態度である。この往復書簡で最も美しいエピソードは、樹と鳥をめぐる対話である。アフリカでの夜、川田は武満の音楽が、「大気のなかにひとつひとつ放たれてゆくような音で、それでいてあたりの鳥のさえずりや茂みをわたる風の音に溶けあってしまうというものでもない。鳥や風の声に対しては異を立てるものでありながら、鳥や風に向って指を口にあて眉をひそめてみなくても、そのまま差支えなく聴いていられるようなものだった」(48頁)と述懐する。これに対して武満は、「自然の物音が、(私の)音楽の妨げとはならなかったそうですが、反対に私の音が鳥たちを脅かさなかっただろうかと不安になります」(72頁)と返答する。そして、鳥の住処でもある樹について、ル=クレジオを引きながら、想いを述べていく。「樹を見るように、樹を感ずるように、(私は)音に触れたいと思います。」鳥のさえずりや虫の鳴き声や葉擦れの音を抱え込んで、全体として樹の音が成立しているとすれば、既成の形式に収まるように音を集め、作り出すようなことは自然が示している音の豊かさから遠のくことにしかならないだろう。これを受けて、川田も「サバンナの人々の生活感覚の中で、樹木は(そして、私もそれに共感するのですが)閉じた一個の物体ではなく、宇宙のさまざまな要素が、鳥、虫、月の光、雷、大地、人間から祖霊や精霊にいたるまで、空間と時間を横切って相逢い、呼びかわし、交錯する開かれた場、しかし散漫な系ではなく、無数のベクトルがはげしく集中する点であるように思われます」(87頁)と応える。そこには、自然の広がりと流れに対する素直な畏敬の気持ちが表れている。
二人のテクストを貫いているのは、音と言葉が人間にとってどれほど根源的なものであるかという問いかけである。それは当然のことながら、音と意味のつながりを問うことでもある。ただし、それを抽象的に考えるのではなく、具体的な経験から掘り起こしていく。二人の場合で言えば、日本文化のなかで育った出自を自覚し、西洋的な知の方法論を批判的に使いこなし、自然が示すさまざまな表現の可能性の豊かさに謙虚に反応する。おそらく日本の知識人にとって、これは常にたどるべき道の一つだろう。樹のざわめきに耳を傾けることが時代遅れだと思うのは、まさに時代の思潮に流されている者だけである。
武満徹の音楽は、風のように、鳥のように、ふとそこに出現する。結局のところ、それは詩的言語が夢見る境地の一つではないか、という気さえする。この往復書簡にも、そんな風の感触がずっと流れている。その風はサバンナから流れてくるのかもしれず、あるいは武満の曲名を引くならば、「夢窓」から流れ込んでくるのかもしれない。きっと本当に大事な対話は、立ち話をするように、風が吹き過ぎるように、ふと交わされるものなのだろう。豊かな対話とは、理論的な結論を求めるものではなく、思考の種をお互いに交換することだ。そのまま二人の記憶にだけ残っていくべき30年近く前の対話に、こうして耳を傾けられることに、書物のありがたさを思うばかりである。
8.与謝蕪村『蕪村俳句集』(岩波文庫、1989年)
【評者:岩津 航】(2007年6月24日)
蕪村の世界には、僕は俳句からではなく、絵画から入った。これは今どき、少し珍しいことかもしれない。もちろん、学校で習う「菜の花や月は東に日は西に」や「春の海ひねもすのたりのたりかな」といった句は知っていたし、雄大でユーモアがあって面白いとも感じた。しかし、それ以上深入りすることはなかった。
大学に入った年の秋、僕は京都で蕪村の「鳶鴉図」を見た。そのときの衝撃は、いまだに忘れられない。画面を支えている精神性の高さに圧倒された。優しさと厳しさが見事に一体となり、今でも複製を見るだけで心が震える。それからしばらくは南画に惹かれて、関西一円の美術館を廻って見て歩いた。頴川美術館で柳沢淇園を、京都市立博物館で池大雅を、萬野美術館で田能村竹田を、清荒神で富岡鉄斎を、というぐあいに見ていくうちに、蕪村らしさというものが判ってきた気がした。もちろん、「闇夜漁舟図」をはじめとする逸翁美術館所蔵の蕪村の傑作群も見逃しはしなかった。唯一の後悔は、蕪村晩年(「謝寅」の落款の頃)の最高傑作の誉れ高い「夜色楼台図」が、僕のフランス留学中に公開されたため、見られなかったことだ。水墨画は光に弱く、常設展示できない。しかも「夜色楼台図」は個人蔵である。次はいつ見られるのか、まったく判らない。
画家蕪村については、しかし今は措く。詩人蕪村のすごさを発見したのは、「俳詩」を知ったときだった。漢詩、俳句、散文を織り交ぜた「春風馬堤曲」の形式は、日本文学史上空前絶後である。たとえば語りの技法。詩人は途中まで薮入りの休暇で実家に帰る娘と堤上を同行するのだが、別れてからも、娘が家にたどり着くまでの様子が三人称的に描写される。人称を明示しない日本語の特色を活かした語りの技術だ。また時間構造も複雑だ。堤を故郷に向かって歩いていくうちに、娘は奉公に出る前の子供時代を思い出す。里帰りの道のりが記憶の遡行と重なる経験は、親元を離れたことのある人なら、誰でもあるものだろう。そこに、途中の古宿の前で見た「猫児妻を呼妻来らず」「雛飛欲超籬 籬高堕三四」といった光景が、何の説明もなしに挿入される。少女時代の終りを動物によってさりげなく、しかし残酷なほどはっきりと象徴してみせる。こんな詩はほかに読んだことがなかった。
「北寿老仙をいたむ」と題された詩も、驚くほど近代的だ。七五調を排し、のちの新体詩も顔負けの清新な詩である。
君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
風景のなかの不在を悼むこの感覚は、ロマン主義から象徴主義にかけてのヨーロッパ詩を彷彿とさせる。それにしても、この真摯で情のこもった、それでいて無駄のない引き締まった文体は、どこから出てきたのだろうか。
蕪村については、明治以来、多くの人が語ってきた。蕪村を芭蕉より優れていると持ち上げたのは正岡子規である。萩原朔太郎は、蕪村の技巧のみを褒めた子規を批判し、蕪村の本質は「郷愁」にあると論じた(『郷愁の詩人与謝蕪村』)。芳賀徹は『與謝蕪村の小さな世界』(中公文庫)のなかで、古今東西の詩人や美術と蕪村を比較しながら、たとえば蕪村が桃源郷の描き手としてどのような位置を占めているかを考察した。ほかにも、森本哲郎は蕪村と漱石を比較し、『草枕』の主人公は蕪村ではないかと推測し(『月は東に』、新潮文庫)、高橋治は「蕪村狂い」を自称し、この世には蕪村好きとそれ以外しかいないと断じた(『蕪村春秋』、朝日文庫)。
然り、蕪村は人を夢中にさせる。僕が好きなのは、蕪村独自の時間感覚だ。芭蕉以来、俳諧はある瞬間を切り取るカメラ的手法を発達させた。蕪村にもそれはある。「動く葉もなくておそろし夏木立」などは、その好例だろう。しかし、蕪村の瞬間は、次の瞬間を内包したものの方が多い。「春雨やものがたりゆく蓑と傘」や「路次の闇親子除け合ふ頭巾かな」は、まるで広重の浮世絵のようだが、見えてくるのはほんの数秒ながら、動きのある風景だ。「肘白き僧のかり寝や春の宵」は、宵闇の中に白く浮かび上がる身体の一部に焦点を当てた、すぐれて視覚的な句だが、ここでも僧の眠りと春の夜の進行が、風景の背後に流れている。「涼しさや鐘をはなるるかねの音」は、明らかに芭蕉を意識した句だが、目に見えないものを視覚化し、鐘の音が消えていくまでの時間を含んでいる点が独創的だ。「落穂拾ひ日あたる方へあゆみ行」は漫画のように楽しい光景で、日が傾き山陰に消えていく午後の時間を強烈に感じさせる。「月天心貧しき町を通りけり」となると、眠りについた寒村の上を過ぎていく月の軌跡が高速度撮影のように思い浮かぶ。
もっとはっきりと、時間の経過を暗示し、不在を歌った句もある。こちらはほとんど短歌の感興に近い。「凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ」は、今日の空に昨日の空を重ね、今はないものを見ようとする。「春の雨穴一の穴にたまりけり」「身にしむや亡妻の櫛を閨に踏む」といった句では、かたみを通して、存在が不在に転じる時間を偲ばせる。「穴一」とは子供が地面に穴を穿って小銭などを投げ込む遊び。子供たちが帰った無人の風景に雨が降りしきっている。反対に、「冬ごもり心の奥のよしの山」は、まだ来ない春を炬燵にもぐって先取りする。こうした時間感覚には、近代的な喪失感が表れている。それなくしては先の「北寿老仙をいたむ」は書けなかっただろう。
瞬間と持続という、時間の二つの側面を蕪村は見事に十五音の詩にまとめあげた。よく蕪村俳句の絵画性などということが言われるが、この時間の重層性において、蕪村の句はただの風景描写から飛び抜けているのだ。しかも、それを表現するのに、蕪村はユーモアを忘れなかった。「なれ過た鮓をあるじの遺恨哉」では、鮓の発酵が時間の経過を示すとともに、取り返しのつかない事態への主人の悔いが残る。それは大げさに「遺恨」と言うほどのことではないが、つきつめれば、時間の不可逆性に対する悲しみに通じるだろう。逆に、「実ざくらや死のこりたる菴の主」は、桜の季節に死んだ西行法師と自らを引き較べ、花が散り、さくらんぼが実を結ぶ季節になってもなお生きながらえている自分を自嘲した句だが、厭世気分はかたちばかりのもので、本当はこのおかしな世界にまだ生きている自分を、あきれながらも面白いと思う気持ちの方が勝っている。時を経て変わるものと変わらないもの。蕪村の目はその両方を捉えている。
蕪村晩年の画賛に「歯あらはに筆の氷を噛む夜かな」というのがある。剃髪の俳人が文机に向かって筆を上げているところを後ろ姿で描いたものだ。年老いて、痩せた歯茎を剥き出しにして、凍りついた筆を噛んで溶かす。それは滑稽であると同時に、人生の最後まで学ぶことをやめない人間の冬の夜の感動をも伝えている。俳諧とは、本来は駄洒落の応酬みたいなものだった。だが、人生は駄洒落だけでは済まない。滑稽味のなかにも言うべきがある。先哲が言い落としたことを拾い上げ、笑いながらその意味を問いかける。それはニヒリズムからは遠い知的な余裕だ。その余裕を支えているのは、孤独への覚悟である。人生は思い通りにいくものではない。その寄り道の過程が滑稽で、愛おしい。蕪村句集に一貫する眼差しは、そうした温かさと寂しさにあふれている。
7.観世寿夫『観世寿夫−世阿弥を読む』(平凡社ライブラリー、2001年)
【評者:坂巻康司】(2006年3月6日)
最初の一語から最後の一語に到るまで読むものを魅惑する批評というものはほとんど存在しないと言ってもいい。しかし、『観世寿夫−世阿弥を読む』という批評・エッセイ集を手にするものは、そうした希有な体験をすることができるかもしれない。それほどこの書に含まれている思想と言葉の連なりは、私のような凡庸な読者にとっても、到底、見過ごすことのできない重みを湛えているように思えた。
さて、観世寿夫とは何者であったか。観世流シテ方の名家に生まれ、幼少のころから能楽師として類い稀なる才能を発揮してきた彼は、それだけでも単なる能役者ではなかった。しかし、彼はあるとき更なる飛躍を求める行動に打って出る。単身、フランスに渡り、当時のフランス演劇界の重鎮ジャン=ルイ・バローに師事し、西洋演劇の演技術を学び取ろうとしたのは彼が37歳のときであった。普通ならば能楽師として築き上げてきたキャリアに自足し始めてもおかしくはない年齢のそのときに、彼は自らを更なる苦境へと追い立てるかのごとく、次から次へと冒険を開始する。
帰国後、「能楽講座」を開催する傍ら、現代演劇、前衛音楽のメンバーらと交流を深め、その行動範囲を遥かに拡大していった寿夫が行き着いた先は、≪冥の会≫の結成であった。能からは観世静夫、観世栄夫、狂言からは野村万乃丞、野村万作、新劇からは山岡久乃、劇作家からは山崎正和、フランス文学からは渡辺守章などが参加したこの会は、文字通り横断的なジャンルを指向する演劇研究グループであった。第一回公演はソポクレス作、山崎正和潤色、観世栄夫演出の『オイディープス王』であり、寿夫はタイトルロールを自ら演じている。この会の公演はその後、『アガメムノーン』(アイスキュロス作、渡辺守章演出)、『メデイア』(セネカ作、渡辺守章演出)、『ゴドーを待ちながら』(ベケット作、石沢秀二脚本演出)、『山月記』(中島敦作、矢代静一脚色、観世栄夫演出)、『天守物語』(泉鏡花作、観世栄夫演出)と、破竹の勢いで続いていくことになるだろう。
まさに≪冥の会≫は寿夫を中心として、古今東西の劇作品の中を理論・実践の上で突き破りながら、現代における演劇表現の可能性を探った他に類を見ない壮大な実験であった。しかし、寿夫が本業の能楽を疎かにすることがなかったことは言うまでもない。国内での能の演目は、このような激務にも拘わらずいっそうの冴えを見せるようになる。加えて、≪世阿弥座≫のヨーロッパ各地での公演(1972年、76年)、世界演劇祭の「国際演劇会議」への出席(72年)の傍ら、数多くの能の番組録音、講演会を続けつつ、他方、海外からはバローやグロトフスキといった重要な俳優・理論家を招き交友を重ねるなど、寿夫は文字通り八面六臂の活躍を続けていく。
しかし、この怒涛のごとく繰り広げられていく活動は、確実に寿夫の体を蝕んでいった。1978年1月、岩波ホール演劇シリーズでエウリピデス作『バッコスの信女』を演じた寿夫は、その翌月に胃がんを宣告される。しかし、寿夫はひと月の静養の後、まるで残された時間の短さを知っているかのように活動を開始する。それから数ヶ月、ほとんど休演をすることなく、寿夫は能を舞いつづけた。10月から寿夫は雑誌『新劇』紙上で「心より心に伝ふる花−能の現象学」と題するエッセイの連載を開始するが、この珠玉の言葉を集めた寿夫独自の能楽論の連載が完結するのは彼が亡くなるひと月後の1979年1月であった。
『観世寿夫−世阿弥を読む』は世阿弥について寿夫が語った文章を集めたものである。能楽師が世阿弥を読むとはどういうことなのか。それも、稀代の能楽師として知られ、五十代前半で夭折した観世寿夫が、室町期に能楽の基礎を形作った世阿弥を語るということはいかなることなのか。我々はこの書に触れることにより、世阿弥という人間が近世芸能史において果たした偉大な役割を知るとともに、寿夫の中に脈々と流れる世阿弥の精神と、現代にまで続くその尋常ならざる影響を知らされることになる。
それほど世阿弥は寿夫にとって重要な存在であった。能の世界では江戸時代以降長らく、世阿弥は古色蒼然とした旧世界の遺物として省みられることのない存在であった。明治になり、その伝書が数百年ぶりに発見されても、世阿弥の理論は学問的興味の対象になりこそすれ、能楽の在り方自体に影響を及ぼすことはなかった。家元制度のもと、漫然とした演技を繰り返すだけの能の世界。若い寿夫にとって、この世界は手の施し様のないところまで硬直化していると感じられたのだった。寿夫は能を再興するには世阿弥を読むしかないと考える。能についての全ての答えは世阿弥の伝書の中にある。世阿弥との対話を通して、そして対決を通してしか、新たなる能の伝統は作りえないとの確信が寿夫の文章の端々から感じられる。
しかし、そうした寿夫の戦闘的な部分よりも、能の中に沈潜し、その日々の実践の只中からつかみ出したものをかろうじて言葉に置き直した部分こそが、寿夫の文章の最大の魅力であることは間違いない。例えばこのような文章がある。
「自然の花は見せるために咲いているのではない。自らあるべきところ―空間―に、しかるべき時節―時間―に、花開くのである。つまり自然に。それを、さまざまな発見の仕方をした人間がさまざまにめでるわけである。宇宙的時空の絶対的必然の瞬間に、ふと、咲く、誰かのためではない、それが「花」だ。役者も舞台の上でそういう状態で存在できないものか。役者も見せようと思って舞台に上がっては駄目だ。多岐にわたる観客の中の誰に向けて見せようと思うなど本当はできないこと。しかも観客に対して演技をするという絶対条件は果たされねばならない。「時節当感」と世阿弥が言うのもここのことだろう。必要なものが要求されるとき生まれ出ずる。花は花のタイミングで咲き、人は人のそれぞれの条件で行動する。その咲いた「花」と人との出会い。一期一会である。舞台と観客との―両者は強調したかと思うと闘争しているようなもの―関係もそういう出会いにならないか・・・」(「心より心に伝ふる花」、139ページ)
そして、寿夫の舞は世阿弥との対話を通して、紛れもなく「無」の境地を目指していたことが、ここに集められた文章を読むとはっきりとわかる。例えばこんな一節。
「世阿弥は書いている。何もない「無」から、さまざまな能を身につけた「有」に至り、さらに理屈を越えた「無」へと回帰する、と。ある意味では、きびしい自己否定に徹した暁に、実存へとつながっていくということだ。あるいは、「死」という所詮はのがれられない現実的な「無」を、無限世界を舞台に造形する手がかりとして生かしてしまっているのだ。世阿弥は舞台の虚構はそのまま虚構としながら、その裏にある真実性を引きずり出して見せてくれるのである。中世という特殊な時代の背景を持ったからとはいえ、驚くべき才能だと思う。日本の中世の哲理を、すぐれた夢幻能からは汲み取ることができるのだ」(「妙なる花」、165ー166ページ)
哲学的な文章であるが、世阿弥の本質をひとことで捉えている。あるいはこのような部分。
「世阿弥が彼の伝書の中で再三述べている、舞歌の二曲を中心とした考え方も、ことばという具体的なもの―それは限定された観念の伝達の手段です―にたよるより、音と動きといった、より抽象的なものによって、はるかに微妙で深遠な美しさを表出することを考えついたためだと思います。ですから能を演奏する技術は、筋書きに基づいた心理描写や感情移入によって、その役になるということとは異なったものなのです。東洋的な現わし方をすれば、「無」になるということかもしれません。それは意識的なドラマの世界から飛躍して、音と動きの中に身をゆだねることにほかならないのです」(「無相真如」、15ページ)
世阿弥を語る寿夫の言葉はとにかく魅力的だ。瀰漫するロマンチシズム。その一方で発揮される、知的で精緻な分析力。囁くように綴られる数多くの文章。時に似たような内容が連なることも確かにあるが、しかし、大抵の凡庸な芸術批評に潜んでいる狭隘な精神性はここには些かも存在していない。全てが自分自身の体験から湧き出ている言葉であり、それはいかなる高等な理論よりも説得力を持つように感じられる。寿夫はまた、無味乾燥な言葉の横溢と、瓦礫の山へと堕しかねない韜晦な表現の連なりだけは、潔く峻拒していると言える。これは紛れもない彫心鏤骨の批評集成であり、能楽師、観世寿夫が遺した畢生の言葉であるといっても過言ではないであろう。
寿夫がこの世を去ってから四半世紀・・・。その舞を目の当たりにした多くの者は、死後も寿夫に対し最大級の賛辞を送り続けている。残念ながら、我々はもう寿夫の舞を見ることは出来ない。しかし、この書を読むとき、寿夫が能に託した精神性は些かの淀みもなく蘇ってくる。
6.イヴ・ボヌフォア『ありそうもないこと―存在の詩学』(阿部良雄、田中淳一、島崎ひとみ、宮川淳、松山俊太郎訳、現代思潮新社、2002年)
【評者:坂巻康司】(2005年8月22日)
膨大な論考を集めた、このボヌフォアの代表的な批評集全体を論じることは筆者の手に余る行為である。ここでは専ら、恐らくボヌフォアの書いた詩に関する最も重要な批評である、「詩の行為と場所」を論じることに集中したいと思う。ボヌフォアの著作の最近の翻訳としては他に『マラルメの詩学』(阿部良雄、菅野昭正訳、筑摩書房、2003年)もあるが、そこに収められた幾つかのマラルメ論を理解するためには、この論文を論じることがまず先決であると考えられる。
「詩の行為と場所」は1959年にコレージュ・ド・フィロゾフィーでボヌフォアによってなされた講演の原稿である。1959年とはボヌフォアが36歳を迎えた年であるが、そのとき彼はまだ『ドゥーブの動と不動』(1953)、『昨日は荒涼と支配して』(1958)という二冊の詩集しか刊行していない、言わば駆け出しの詩人であった。もちろんそれ以前の40年代に、シュールレアリズムのグループとの接触、バタイユとの出会いなどもあったが、彼の本格的な文学的活動は50年代になってようやく始まったばかりであった。その意味で、これはボヌフォアのその後の文学的活動を決定付けるマニフェストと呼んでもよい詩論、芸術論なのだ。
ボヌフォアはのっけから「私は詩を希望と結びつけたい」という一言を観客に投げかける。それは、「詩」がもはや「希望」や「愛」、「夢」などといった言葉とともに語られなくなり始めた時代に発せられた、ある意味で「詩の危機」を自覚することばであったろう。それでは、なぜ、「詩」が「希望」と結び付けられねばならないのか。そして<「希望」がない>とは「詩」にとって、どういうことなのか。それは、「語」がもはや「事物」との関係性を失ってしまった事態であることがボヌフォアによって直ちに明らかにされる。つまりこれは、「表象」が危機的状況にあることを見据えた批評なのだ。
そうした時、ボヌフォアが問題にしようとするのは、当然ながらマラルメということになる。実際、この批評は半分以上、マラルメとの対決、マラルメ詩学への挑戦という色彩を持っていると言っても過言ではない。それではボヌフォアはなぜ、マラルメと対決しなければならないのか。それはボヌフォアにとって、マラルメこそが「言語」と「事物」の乖離を極限に到るまで押し進めることによって、現在の詩の源流を形作った張本人であるからである。とはいえ、ボヌフォアは根本からマラルメを否定するわけではない。その試みの誠実さを認めるのに吝かではないのだ。
「それにしても彼が見切りをつけて火にくれてやった部分は莫大だった。彼は虚無が現実態において作用しているのを見たのですが、その虚無に対して、また有限性に対し、偶然に対して、強情な心がまえゆえに、そして恐らくは方法的決断ゆえに、ほとんど全てを放棄してしまうことに同意したのです。[・・・]マラルメはもはや存在の核そのものだけしか救おうとは思わないのですが、語がその核とまさに一体をなすように見えるものだから、本当にそういうことができると彼は信ずるのです。[・・・]詩は存在を救うべきであり、ついで、存在が私たちを救うべきだ、というわけです」(114ページ)
ボヌフォアのマラルメにたいする批判は一見、激越なものに思われるが、マラルメが真理を突いているという点はボヌフォアも見逃していない(「なぜならマラルメがたどりついたところはただ真理でしかないのですから」、115ページ)。しかしながら、「真理」が時にとてつもない迷妄に陥ることもあるのではないか、とボヌフォアは指摘するのである:「「幸いにも」と、カザリスに大計画を打ち明ける手紙の冒頭に彼は書いています、「私は完全に死んでしまった」と。[・・・]マラルメは、彼の身のうちで、苦悩しよう、理解しようとして身を起こした最初のものである情熱を黙らせることによってしか、存在の戸口に足がかりを得る希望を抱くことはできなかった、ということです。すでに死んだ者にしか与えられぬこの富になんの価値があるでしょうか?」(115-116ページ)
続いてボヌフォアはラシーヌ、ランボー、ボードレールを振り返り、「詩」の根拠がどこにあったかをもう一度問いかけ始める。ボヌフォアはそこに「希望」のもう一つの形、彼自身が信じる希望の姿を見出すのだ(「なぜなら、大昔から、そしてその壮大な意図にもかかわらず、詩はその閉ざされた棲処の中に、ある何かしら未知の生活に対する意識、もしかするともうひとつの救い、もうひとつの希望への意識―いずれにせよ、何かしら怪奇で口にするのもはばかられるような快楽への意識を、保ちつづけてきたのですから」、116ページ)。
ラシーヌの古典主義的な詩句の中にも、ボヌフォアはいわく言い難い、形式には収まりきらぬ逸脱の魅惑を感じ取っているが、そこにはそれでも確固とした韻律法が存在していた。しかし、そのラシーヌ的な詩が本質的な形で完成態を見たのはボードレールであるとボヌフォアは断じている。それは、形式的に厳格な詩句を極限にまで押し進めることにより、逆にその形式のなかに収まりきらぬものをボードレールは見事に詩の主題とすることに成功したということだろう(「ただ、違うのは、ラシーヌが統一というものをひとつの理想的な球体、無限に切り離された球体として考えるのに対して、ボードレールは統一を感覚世界のただなかに、意識の外に、自我の外に荷なっている―あるいは探し求める―ということです」、120ページ)。そうしたことをボヌフォアはマラルメと比較することによって巧みに説明している。
「私は「白鳥」を例に挙げたい。マラルメが「エロデイアード」によって、最後にもう一度だけ、人間の動作を停止させ、それをもろもろの天球に結びつけ、いまだあまりにも闇を背負うようなものだったラシーヌの女主人公を観念の中に溶解しようと試みるのであろうのに対して、ボードレールは、古典主義的な祖型に置き換えるに、ひとりの通りすがりの女、ひとりの現実の女、誰だかよくは分からないが、その本質的な脆さ、その非必然性、その不思議な苦悩ゆえに敬うべきものであるひとりの女をもってするのです。ボードレールはこのアンドロマックを創造するのではなくて、彼女に「思いをいたす」のですが、それはとりもなおさず、意識の外にも存在があり得るということを、そしてこの単純な事実は、その危なっかしい条件にもかかわらず、精神の棲処などよりはよっぽど価値があるのだということを、意味するのです」(120-121ページ)
ここにおいてボヌフォアの詩学はほとんど完成していると見てよいだろう。ボードレールが「通りすがりの女」に見出した可感的な世界こそ、詩が求めるべき真の、そして唯一の主題であり、詩が表現できるのはそれしかない。つまり詩が表現できるのは、「いま」「ここ」にある個別的な世界の激越さ、「強度」のみであり、そこから普遍的な世界に飛翔するなどということは詩の思い上がりに他ならないのだ、という主張なのだ(「ここに投げ出され、ここに在ることに驚き、自分にとって謎であるのと同じように詩人にとっても謎であり、詩へと運命付けられてしかもなお、その逆境の極みにおいて、自らのうちに逆説的な歌を生きさせることの出来る白鳥とは、死に絶えようとするあるひとつの詩の中で初めて、至上権者として確認された、個別的な実存なのです。白鳥はここであり、いまであり、この限界である。それこそは、詩が絶えず、純粋で激しい危機、感情のでもあり思惟のでもあるような危機の中で、発見し直さなければならないものなのです」、121ページ)。
「私の信じて疑わぬこと―そして私は私の研究の中心においてこのような言を発したいと思うのですが、それは、ボードレールは在るもののまさしく根底に、その死の裡にそしてそれが死ぬものであるゆえに、在るものこそ私たちの救いであり得ると感じたのだ、ということです」(124ページ)。「ここ」と「いま」。そして「在る」ということ。これこそボヌフォア詩学の根幹にある概念である。いや、それは概念と呼ぶべきものではないのかもしれない。ひとつの確信、ひとつの信仰、そして、ひとつの希望なのである。「現前」を追い求めたはずの文学が、それ自身の根源的な欠陥から「現前」の遥か手前、あるいは遥か彼方しか主題化し得ず、「現前」するものは常に文学から逃れ去っている。ボヌフォアにとって、「現前」を脅かそうとするあらゆる文学的試みは、文学の存在基盤を揺るがし、文学そのものを粉砕する暴挙に等しい。ここにおいてボヌフォアは「ここ」と「いま」に立脚する文学観、そして詩を築いていくことを決意するかに思える。
ボヌフォアのこの決意の真摯さを疑う余地はどこにもない。マラルメ以後の文学が辿り、ヴァレリーとクローデルを通して、また、シュールレアリスムも経験しつつ、そして当時「ヌーヴォーロマン」と呼ばれた文学運動に到るまで続くと彼が信じた「不毛の荒野」、その根底に<「現前」の廃棄>の思想を持つ文学の営みこそが彼にとって粉砕すべき対象なのだ。いまだここまでの激越さをもってマラルメ以後の近現代文学に「否」を突きつけた批評は皆無であろう。それが彼固有の文学観によって裏打ちされているのでなければ何ほどのものでもなかっただろうが、このボヌフォアの詩学には、確かにこの巨大な文学の流れと対峙するだけの強靭な思想が感じられる。その是非を認めるかどうかはさて置いて。
それではボヌフォアの試みはどのような形を取るのだろうか。ボヌフォアにとって、詩作はひとつの「行為」にしか過ぎない。それはあらかじめ絶対的な価値をもつものではなく、詩が書かれる瞬間瞬間に形作られていくものなのだ。それは詩自体が、また言語自体が「行為」であるということを意味する。となれば、それは一種のあきらめ、諦念のような形を取らざるを得ない。ボヌフォアが対決せざるを得なかった文学観が言語の絶対的至上権を認めるものであったならば、それに対してボヌフォアが言語の不完全さを訴えなければならないのは当然のことと言えるだろう。言語自体に目的があるかのような文学観はボヌフォアにとっては粉砕されなければならぬものなのだ。
「だが言語の困難、直接所与を表現することにかけての、人も知る言語の無能、私はそこに、それが解決されていないことを忘れてはいません。[・・・]言葉というものはたしかに、私が今やっているように、現前を頌め讃え、その行為を歌い、私たちを心の中で現前との出会いに備えさせることを可能にしてくれはしません。言葉とはすでに忘却なのであり、ひょっとして言葉は私たちの失墜だった、というのも十分あり得ることですし、とにかく言葉はいまや存在との出会いを剥奪されているしだいであってみれば、またしてももう一度、詩の思い上がりを断罪すべきではないのでしょうか?[・・・]むしろ詩の限界を認めなければならない、そして、詩がひとつの目的たり得たことがあるのは忘れて、詩を単に接近の手段と心得なければならない、と私は思うのです・・・」(133ページ)
さて、ここまで詩の限界、言語の限界を認めてしまったとしたら、いかにして詩の存在理由を肯定することができようか。しかしボヌフォアはこのように欠如態としての詩、不可能性としての詩を認めるところから出発しなければ、詩に未来はないと考えているかのようだ。詩は「すべて」ではなく、まして詩によって「すべて」が可能なわけでは毛頭ない。しかしだからといって、詩の「すべて」が否定されてしまうわけではない。詩は可能態であり、それは計り知れぬものであるけれども、不可能性を基盤としたその可能態としての詩にボヌフォアは賭けると言っているかのようだ。ボヌフォアはそのような自分の試みを「否定神学」と名づける。そのとき、この批評集の表題『ありそうもないこと』の意味と、そのエピグラフに掲げられた言葉の意味が明らかになる。
「私はこの書を捧げる、ありそうもないことに、ということはつまり、在るところのものに。
目覚めていようとする精神に。否定神学に。雨と、待機と、風との、欲し望まれる詩に。
解決する代りに、深刻にするような、暗いものを指し示すような、光をいつでも引き裂かれうる雲と見なすような、ひとつの偉大なレアリスムに。高く実行不可能な明晰さを心がけるところのレアリスムに。」(9ページ)
いまや、詩の実在性は「ありそうもない」かもしれない。しかし、全てが絶対的実在性を主張しようとする現在、このもっとも「ありそうもない」ことを主張する「詩」こそ、実は最も「ありうる」ものと言えるのかもしれない。この不可能性に立脚した命題こそが、ボヌフォアの言うところの「否定神学」であり、彼にとっての「詩」の存在基盤なのだ。この「ありそうもない」実在態を与えてくれるものこそが、「秘儀伝授的なレアリスム」(140ページ)としての「詩」なのだということになろう。
このようなボヌフォアのいささか倒錯した議論を批判することはたやすいであろう。一方で「いま」「ここ」を主張しながら、他方では「永遠性」を云々することもあるし、また、「ありそうもない」ことの優位を主張しながら、他方で「真の場所」という表現を使ったりするボヌフォアの詩学は、必ずしも全ての読者を納得させるものではないかもしれない。ボヌフォアを理解するにはこの幾重にも張り巡らされた、逆説的な論理を組み解いていかなければならない。しかし、自分の前に立ちふさがる巨大な文学的伝統にボヌフォアが真摯な態度で立ち向かおうとしていること。そして、それを前にして、逆説的な論理を使いながら詩の存在理由を問い直そうとしていることだけは、誰の目にもはっきりと判るであろう。ボヌフォアの試みはここで終わることなく、これ以後も、数多くの講演、批評の中で持続していくことになる。また、マラルメに対して見せるボヌフォアの巨大な留保は、これ以後も数多くのマラルメ論の中で展開されることになる。最も否定すべき存在であるがゆえに、マラルメの優位がボヌフォアの中で揺らぐことがないというのもまた、逆説的ながら言えることであろう。
5.『冬の光に ―フィリップ・ジャコテ詩集―』(後藤信幸訳、国文社、2004年)
【評者:坂巻康司】(2005年8月22日)
今回は現代の詩人を取り上げてみよう。
フィリップ・ジャコテは1925年にスイスで生まれ、現在は南フランスのグリニャンで創作を続ける詩人である。同世代の詩人としてはイヴ・ボヌフォア(1923年−)、アンドレ・デュ・ブーシェ(1924年ー2001年)、ジャック・デュパン(1927年ー)らがいるが、これらの詩人と比較してもジャコテの日本での知名度はなかり低い。しかし、彼は既に70冊に上る詩集、作品集を刊行しているベテランの詩人であり、フランスでは現代の最も重要な詩人の一人と見なされている。確かに、イヴ・ボヌフォアのようにコレージュ・ド・フランスの詩学講座の教授を務めたり、世界各国で講演を行なうような派手さはジャコテにはない。何らかの前衛的な方法を確立し、それを着実に実践していこうとする意図も意志も恐らくない。しかし、その素朴で簡潔な作風には独特のものがあり、畳み掛けるように綴られていくその詩の世界に、読者はいつの間にか惹きつけられてしまうから不思議である。
「かつて、
怯えるもの、無知なるものであった この私は、
かろうじて生きているにすぎず、影像で眼を覆い、
死に行く者や 死者たちを 導くつもりでいた。
保護され、大事にされ、
ほとんど苦しみを知らぬ詩人、
この私が、そこまでの道筋を示そうとしていた!
いま、ランプは吹き消され、
手はいっそうさ迷い、震え、
大気の中で 私はゆっくりと やり直す。
[・・・]」(「教え」、『冬の光に』、9ページ)
このように簡潔に綴られるジャコテの詩は、使われる語彙も単純で、意味は明瞭であり、晦渋な表現のなかに沈潜するということはまずない。それは、最も単純な事物、風景、そして「ことば」こそが、この世界の真実に迫る手段であることを悟った詩人の、唯一の方法的実践と言えよう。ジャコテの詩には「謎かけ」や象徴はほとんど存在しないといっても良い。ジャコテはそこに有るもの、目の前に存在する具体的なものを通してしか語ることはない。
ジャコテは当初、ヘルダーリンやノヴァーリスの翻訳を通して、ドイツ・ロマン主義的な世界に耽溺していた。冷暗なドイツの深い森を思わせる、生の根源を廻る思索がジャコテに及ぼした影響は大きかったようだが、それ以上に、ポンジュとの出会い、ウンガレッティの発見がジャコテの作風を決定づけていく。それは彼にとって単純なものに宿る真実の発見であった。と同時に、南仏の自然の美しさが現実の中に詩の主題を見出すジャコテを作り上げていくことになる。
ジャコテの詩は、しばしば「懇願」のようなものに満たされることがある。
「子供よ、止まれ、おまえの眼は、それを見るために作られてはおらぬ、
なおしばし 目を閉じ、盲目となって眠りたまえ、
ああ なおしばし 知らずにいたまえ、そしておまえの眼が
無垢の天空と等しくあり続けんことを。」(「他の歌」、『冬の光に』、71ページ)
「それについて なおも語りたまえ、忍耐強く さらに忍耐強く
あるいは激しく、だが なおも語りたまえ、」(「それについてなおも語りたまえ」、同上、87ページ)
「聴きたまえ、さらに耳をすませて聴きたまえ、
壁という壁の背後に、おまえの内部と
外部にある 増大する騒音を越えて、
聴きたまえ・・・・・そして 眼に見えぬ水を 汲み出したまえ
そこではおそらく 昔から、眼に見えぬ獣たちが 次々と
いまなおその水を飲んでいるのであろう[・・・]」(「冬の光に」、同上、112ページ)
このような「懇願」が続くかと思えば、他方では、幾つかの考えが「疑問」の形で次々に表明されることもある。
「あるいはそれは すでに 月であろうか、
上りながら、すべての塵と
私たちの吐く息を洗い流す 月であろうか?」(同上、119ページ)
「そして 空よりもさらに遠くから 他のより白い
―泥にまみれた根のあいだを 通らなかったので―飛翔する群れが
彼らを迎えようと 同じように降りて来ないだろうか。
そしていま 飛翔する群れは 次第に足を速め、
恋人たちさながら 相手の方へと
互いに駆け寄っているのではなかろうか?」(同上、119ページ)
「これほど内気で、臆病な魂が、
ほんとうに あの氷河の上を 果てしなく歩まねばならないのか、
ひとり、素足のまま、子供のころの祈りを
もはや たどたどしく唱えることすらできずに、
あの冷気によって 心の冷たさを いつまでも罰せられ続けて?」(「見える」、『雲の下の思い』、130ページ)
「 彼らの身体は灰だ、
彼らの影も思い出も灰だ、その灰さえも、
名もなく顔もない風が吹き散らす、
そして何が、この風さえも、消し去るのか?」(「雲の下の思い」、同上、144ページ)
これらの語りに詩法としての新しさはない。しかしジャコテは飽くまでこうした形でしか何かを語ることができない。この絶え間なく続く「懇願」や「疑問」が示しているのは、ジャコテの詩が確かに詩の送り届ける<宛て先>を求めているということだ。その意味で、ジャコテの詩は孤独ではない。その詩は常に誰かに懇願され、誰かに問いを投げかけ、誰かとともに存在している。孤独で他者を寄せ付けない独善的な思索/詩作は、ジャコテの詩においてはもはやあり得ないものなのだ。
この<共生>を夢みる詩作が、ジャコテをその他の詩人から別つように思われる。ジャコテは、現実の<生>に目を向けるという点で、思想の根幹的な部分ではボヌフォアと近いと思われるが、ボヌフォアのように、そこから深遠な哲学的思索を繰り広げることはない。また、デュ・ブーシェのようにエクリチュールの次元で実験的な方法を求めることもない。また、ポンジュのように独創的な事物の捉え方をするわけでもない。もはや、何も目新しいもののない古典的な散文詩の形を通して、自己の詩を産み出そうとするその姿勢は徹底的に時代錯誤とも言える。
しかし、新しさとは何なのか。もはや、新しい思想などというものはどこにもない、新しさを求めること自体が、既に古めかしい進歩思想に侵されているのではあるまいか。そうしたことを深く自覚しつつ、ジャコテの詩は徹底的に古典へと近づこうとする。「徹底的に時代錯誤であること、いかなる時代にも属さないこと」(レヴィナス)が、現代の詩人が取ることのできる唯一の態度であるかのように。決して派手さを求めることなく、語りかけるように綴られていくジャコテの詩の魅力を説明するのは容易ではない。ただ、フランス現代詩の一翼がこのような素朴な詩人によって担われていることは、私たちに何か希望のようなものをもたらしてくれるように感じられるのだ。
4.二冊の新書から ― 中条省平『フランス映画史の誘惑』(集英社新書、2003年)、内藤高『明治の音』(中公新書、2005年)―
【評者:坂巻康司】(2005年8月22日)
今回は最近出た二冊の新書を扱ってみる。
フランス文学者で映画評論家である中条氏の『フランス映画史の誘惑』は、一見、単なる入門書の体裁を取っているが、これはフランス映画に精通した者にしか書けない第一級の批評書ともいうべき充実した内容を誇っている。映画創世記から現代に到る映画史の流れを追いながら、映画がいかにそれぞれの時代と切り結んできたかを鮮やかに描き出している。その叙述は簡潔にして明瞭、大胆でありながら時に繊細でもあり、単なる映画史の枠組みを大きく踏み越えて、読者を惹きつけて止まぬ強烈な磁力を放っている。しかし、だからといって中条氏は映画体験を個人史に還元することはなく、あくまで客観的な記述を心がけようとしている。それは著者自身も指摘するように、これまで読むに耐えうるフランス映画史の本が日本に存在してこなかったことに対する著者の怒りの反映でもあり、今後、常に参照し得る映画史のテクストを執筆しようという意志の現われでもあるのだろう。
フランス文学と哲学のみならず、ジャズやポップカルチャーに関しても該博な知識を持つ中条氏の映画批評は、これまでそうした知識に支えられた「教養批評」的な面が多かったかもしれない。例えばジャック・リヴェットの作品を分析する中条氏は、『美しき諍い女』を批評する際にその原作であるバルザックを念入りに語ることを躊躇しなかったし、『彼女たちの舞台』を語る際にはドゥルーズ哲学に深く入り込むということをしてきた。しかし、この『フランス映画史の誘惑』での中条氏は、あくまで映画そのものに直に向き合い、映画自体をどこまで言葉で語り得るかという難題に挑もうとしているように感じられる。ここに、著者自身に深い影響を与えたに違いない、蓮実重彦や山田宏一といった映画批評の泰斗による批評の手つきが紛れもなく反映されていることを読者は感じないではいられないであろう。しかし、決してこれら先達の映画批評の形式をそのまま踏襲するのではなく、あくまでも自分の目で取り上げるに値する映画を選択し、自分の遣り方で語ろうとしている点が重要である。凡庸な歴史的記述に終始するのではなく、かといって個人的な好みを垂れ流すのでもなく、あくまでも客観的な視座を保持しながら、残された膨大な映画が「いま何を語ろうとしているのか」、という問いに著者は誠実に向き合おうとしている。その意味で、これまでにはなかった形の映画史の本が一冊誕生したということは言えるであろう。終始冷静な筆致を崩さない中条氏であるが、「あとがき」では珍しく感情を曝け出しているように思われる。
「わたしもまた、映画史を形づくるシネアストたちが体験した(多くの場合)残酷な運命と、彼らの残した(と過去形でしか語れない)作品の栄光を秤にかけるようにして、このささやかな映画史を書きました。一本一本の映画にたいする感想や個人的な思い入れは出来るだけ控えるようにつとめたつもりですが、映画そのものへの愛や感情が暴走しそうになる瞬間は何度も感じました。なぜ、映画は人をこんなにも夢中にさせるのか?いまあらためてその不思議さに思いを致しています」(239ページ)
近年、麻布中学時代に執筆されたという伝説的な映画評論を掲載した本も出版され、「映画批評家」中条省平氏の全貌もようやく明らかになりつつある。様々なものを批評する中条氏であるが、氏の中で映画の優位が揺らぐことは今後もないであろう。この本は、そうしたことを感じさせてくれる一冊である。
一方、内藤高氏の『明治の音』はより学究的な書物で、多くの文学研究者を啓発する一冊ではないだろうか。実際、研究書といってもよい極めて充実した内容で、こうしたものが新書として出版されるということは、読者にとっては極めて嬉しい事態といえよう。内藤氏はパリ第4大学にポール・クローデルの美術批評に関する博士論文を提出したフランス文学者であり、現在は大阪大学文学部で比較文学を講じておられる。本書は、日本を訪れた数多くの外国の文学者たちが、日本をどのように捉え、どのように表現しようとしたのか、ということを明らかにしようとする、著書近年の研究成果をまとめたものである。
ここで扱われる作家、学者は、イザベラ・バード、エドワード・モース、ピエール・ロチ、ラフカディオ・ハーン、ポール・クローデルなど大物が並び、比較文学の王道を行っている感がある。これだけでは新鮮さは感じられないかも知れないが、この本の本領はその方法的選択にある。副題の「西洋人が聴いた近代日本」に窺われるように、ここでの内藤氏は彼らの「聴覚」によって表象された日本の姿に徹底的に拘ることを研究の主眼としている。作者は、彼らが残したテクストの中の聴覚に関する部分を細部に到るまで事細かに分析し、彼らのイメージの中で作り出されたはずの日本の姿を再構築していこうとしている。この徹底した方法的アプローチを前にしては、あらゆる読者が感嘆せずにはいられないであろう。
そうした作業の中で、バードやモースなどが持っていた、東洋への差別的なメンタリティーが鮮やかに示されていく様が、スリリングなまでの展開のなかで明らかにされる。しかし、単に彼らが差別主義者であるということを示すだけならば、こうした書物を執筆することはなかったはずだ。内藤氏の書物の眼目は、そのような東洋に対する差別的な視線を持っていた西洋人が、いかなる契機を経ることによって東洋への理解を深めていったのか、その精神の軌跡を追うことに存している。江戸時代の日本の町人の掛け声、虫の声などに対して、当初、嫌悪を示していた彼らが、徐々にそれらの音の持つ奥行きに理解を示し、それを通して日本への理解を深めていく、その精神のあり方を分析する内藤氏の筆致は繊細さの極地に達している。なかでもロチを扱う章は秀逸なものといえるのではないだろうか。
『お菊さん』の中で、ロチの筆致は、彼を囲む「音」への理解度によって常に変化をしていく。彼にとってそれが雑音にしか聞こえない場合、周囲のものは自分の理解を越えた対象として遠ざけられていく。しかし、それが心地よい音に変わるとき、ロチはその対象のなかに得も言われぬ至福の時を見出すことになる。それまで「クリザンテエム」と呼ばれていた娘が「キク」と呼ばれるようになるのである。
「ここでは、演奏する女キクは、他の個所でロチが繰り返し強調しているような人形としての日本女性ではないし、また、昼寝から目覚めない方が望ましい装飾品としての女でもない。その感情は言葉では言い表されないし、ロチには理解できないものかもしれない。だが、とにかくその歌、音楽は心、人間としてのさまざまな感情、情念をロチに感知させ、嘲笑なしにロチはそれをそのまま認めようとする、そこではロチがしばしばひきあいに出す、彼らフランス人とは正反対の思考をする不可解な日本人という観念、あるいはこうした対立項を設定しようとする思考そのものが消えている。[・・・]」(79ページ)
また、ラフカディオ・ハーンに関する章においても、その作品自体の文学的価値の高さとも相まって、非常に興味深い考察が繰り広げられる。ハーンは他の誰よりも蝉を中心とする日本の小動物の鳴き声、物音に深い愛着を寄せた作家であった。ハーンを通して、西洋人の日本理解は間違いなく一段高いレベルに達していることが確認されることになる。松江の庭で耳にした、蛙、蝉、うぐいす、山鳩の鳴き声を、ハーンは「日本の庭」で書き綴る。そこから内藤氏は以下のことを読み取る。
「しかしこうした、小さな生き物たちがつくる理想郷的社会は、いかにも束の間の不確かな世界でもある。いうまでもなく、ハーンは、こうした楽園への文明の侵入、侵略を予感する。この庭は工場や鉄道の用地として間もなく跡形もなくなるだろう。ハーンは現実の歩みよりもさらにその消失を強く予感しているようにも思われる。しかしさらにこうした世界の不確かさの認識については、いまの文明論的視点とは別の次元の、ハーンの内的な志向というものもそこに関わってくる。光を浴びた庭、昼の世界の楽園はハーンにとって、容易に夜の闇に包まれてしまう束の間の世界である。さらに後にも確認されるように、<昼>と<夜>の対立、そして<夜>の優位、こうした神話的構造がハーンの文学には存在する。」(124ページ)
こうした個所で、内藤氏はいま流行りの文明論的視点でハーンの文学を裁断することを自らに禁じ、あくまでもその文学の根源に潜むものへと接近しようとしている。重層的な文学的構造体を丁寧に解体していき、そして鮮やかな手つきで再び構築していこうとするこの身振りは、まさに理想的な文学研究者のそれといえるのではないだろうか。
このような形で、徹頭徹尾、作品の奥深くに侵入していき、その作品の根源へと迫ろうとする内藤氏の粘り強さに驚かされながら、読者はこの本を読み終えることになるだろう。そしてそのとき読者は、再び、ロチ、ハーン、クローデルらの文章に直に触れたいと強く思うだろう。そしてテクストが語りかける、我々が知らないもう一つに日本を目の当たりにし、我々はそこから我々自身の日本について、再び思いを馳せることになるのだろう。こうしてテクストとの対話が際限なく続いていくことを我々は確認するのだ。豊穣な文学世界に鮮やかに切り込み、そこから確かなテーマを導き出す内藤氏の筆致は、この書に於いて冴え渡っており、読者はここに比較文学研究の粋を見ることになるだろう。
3.清水徹『吉田健一の時間』(水声社、2004年)
【評者:坂巻康司】(2005年2月21日)
清水徹氏の批評ほど、その対象への愛情を示す批評は稀なのではないだろうか。ヴァレリー、カミュ、ビュトール、ブランショ、デュラス、堀田善衛、辻邦生、そして吉田健一と、清水氏は自分の興味の対象となる作家達の綴る文章に惜しみなく愛情を注ぎ込む。時にそれは過剰ではないかと思えるぐらいだ。いまやここまで対象に同化し、その作品世界の中を作者以上に生き抜き、その作品の魅力を細部に至るまで味わい尽くそうとする批評家は、清水氏をおいて他には存在しないのではあるまいか。かつて、小林康夫氏は清水氏との対談の折、「いまの僕たちは清水さんのように<読むことへのパッション>のようなものを持ちえない」と述べていたが、まさに清水徹は類い稀なるパッションをもって書物と対峙するいまや数少ない批評家なのである。
この『吉田健一の時間』もそうした批評的営為のひとつである。この本には清水氏が吉田健一に関して綴った文章がほぼ全て集められている。そしてここでも、清水氏が吉田に示す愛情は並大抵のものではない。清水氏は吉田を通してジュール・ラフォルグを知ったと素直に告白するし、幾つかの英仏文学の指南役として、吉田健一の文章に接してきた過去を振り返っている。清水氏の吉田への傾倒振りも並々ならぬものであったことが最初から明らかになる。
吉田健一といえば、宰相吉田茂の息子として戦前にケンブリッジ大学に留学するなどの経歴が夙に有名で、達者な語学力を駆使して多くの英仏文学を紹介する傍ら、自らも小説を書き、その周りには多くの崇拝者を擁していた文学者であった。肩書きは評論家なのか、小説家なのか定かではないが、ある時期の文壇の中に不思議な位置を占めていた人物である。
清水氏が好むのは吉田健一のその不思議なスタンスであろう。暁星中学ではフランス語を学んだが、英国では英文学を学び、仏文、英文どちらにも縛られないという軽快なスタンス。日本の文学者の多くが、英文、仏文、独文という具合に、その出自を明らかにし、そこから逸脱することを潔しとしないことに比べ、吉田健一のこの軽快さは明らかに異端である。
しかし、日本の文芸批評の一部がこうした異端の文学者達によって形作られて来たことも忘れられてはならないだろう。篠田一士、由良君良、そして現代では四方田犬彦といった名前を挙げれば、そうしたことが理解されるのではないだろうか。吉田はそうした系譜に連なる「正統な」文学者なのであり、そのなかでも一際異彩を放っていた存在なのだ。そしてそれはまた、清水氏自身のスタンスでもあるということに読者は思い至るであろう。清水氏もまた批評の対象を狭く限定することなく、幅広いスパンで多くの作家の文章を渡り歩き、またそれを持続しているのだから。
ただ、この本で清水氏が目指すのは「吉田健一がディレッタントであった」ということを示すことではない。むしろその逆である。清水氏は吉田の小説作品に通底する「時間」の概念に注目し、それが極めて独特のものであることを明らかにしようとする。そしてその文学的営為の全体が、その独特の時間論に支えられた壮大な体系であったことを明らかにしようとするのだ。そうした意味で、この本で目指されているのはその表題通りの「時間」の思想家、吉田健一像の構築である。
実際、吉田健一の時間理論はなかなか特殊なものだ。吉田によれば、人が過去を想起するとき、人は「過去」を「現在」として生きていると考える。そうでなければどうして人は過去のある時間に流れた音楽や、感じられた匂いを「いま」のものとして経験できるのだろうかと、吉田健一は問うのである。この考えによれば、もはや「過去」というものは存在せず、人が生きるのは常に「現在」ということになる。プルーストの無意識的想起を彷彿させると同時に、大森荘藏的に過去の非実在を唱えるこの思想は、確かに不思議な魅力を持っている。もちろん、吉田健一は思想家ではないので、この概念を展開することはなかったが、清水氏が明らかにするように、これが吉田の思想を決定していると考えるのもあながち間違いではないだろう。
辻邦生という作家が歴史小説を書くとき、彼はむしろ過去の中に沈潜する。『西行花伝』を執筆している間、彼は長い期間にわたって数百年も前の時代を彷徨い歩いていたかのようであり(彼は、自分自身でそう告白している)、実際、書き終わったときはどこか遠い世界から舞い戻ってきたかのようにやつれ果てた表情を曝していたことが思い出される。これは過去の中に自分自身を追い込む遣り方であり、そこでは過去の存在は微塵も疑われていない。過去というものは圧倒的な価値を持つ時間として、辻邦生の前に存在しているのだ。
一方、吉田健一にとって、こうした形での過去はもはや存在していない。彼は、いかなる過去の時間も自分が生きる時代として自由に行き来できるという特異な性格、あるいは能力を持っていると言えるのかもしれない。シェークスピアが自由に想像力の翼をはばたかせたエリザベス朝の時代も、ラフォルグやボードレールが闊歩したフランスの19世紀末も、焼け野原となった日本の太平洋戦争後の時代も、吉田にとっては全て彼自身の時間なのである。彼がいかなる時代に対しても曇りガラスをかけることなく、ありのままの姿をつかみ取るかのように見えるのは、その特異な時間感覚の働きに存していると考えるのは間違いがないだろう。
清水氏はこういう吉田の示した時間を彷徨い歩きながら、また、彼自身の時間も彷徨い歩いている。吉田健一によって示された様々な文学世界の時間を彷徨い歩きながら、審美渉猟の旅を続けたのが、清水氏の時間であった。我々は清水氏の体験した時間を、清水氏の批評を読むことで、それを「いま」のものとして生きることが出来る。そこで、我々は吉田健一を、ヴァレリーを、マラルメを、カミュを「いま」そこで起こる出来事として体験することが可能になったのだ。こうしたことを考えてみれば、この本は吉田健一の姿を借りつつ、清水氏が自らの信条と、彼自身の批評の存在意義を告白した類い稀なる書と言えるのかもしれない。
2.ガヤトリ・スピヴァク『デリダ論―「グラマトロジーについて」英訳版序文―』(田尻芳樹訳、平凡社ライブラリー、2005年)
【評者:坂巻康司】(2005年2月8日)
2004年10月9日、哲学者ジャック・デリダが亡くなった。この思想家の著作はすでに日本でも数多く翻訳出版されており、これからも未邦訳のものが続々と出版される模様である。また、高橋哲哉、鵜飼哲といった世界的なレベルに達した研究者によって、注目すべき論考が数多く書かれている現在、いまさらデリダの初期作品に関する序文など・・・、と思われる読者もいるかもしれない。しかし、スピヴァクによるこの序文はただの序文ではない。邦訳のタイトル通り、まさに一個のデリダ論とも言える内容を持った貴重な論考なのである。何よりもこの英訳版序文が書かれたのが1976年だというのだから驚かされる。なるほど、日本でも故・足立和浩による翻訳『根源の彼方へーグラマトロジーについてー』が出版されたのは1973年であり、原著刊行から6年目での出版は当時としては驚異的な早さと言える。膨大な脚注を施したこの翻訳はそれだけでも確かに読者をたじろがせるが、翻訳者の確かなヴィジョンが示されているかというとこれは必ずしもそうとは言えないものであった。一方、スピヴァクは彼女自身の持つ該博な哲学的知識を総動員しながら、なおかつ極めて明晰な論理でデリダの思想に立ち向かおうとしている。今から30年近く前にこれだけのデリダ理解を示した研究者は世界的に見ても数少ないのではないだろうか。現在から見れば当たり前と思われるような部分もあるかもしれないが、まだアメリカにほとんどデリダが知られていなかった時期に、これだけの内容を持つ序文が書かれたことは驚きに値するし、スピヴァクという思想家のデリダ思想に対する並々ならぬ理解力を示して余りあると言えるだろう。
また、この序文が我々を驚かすのはその前置きの長さであろう。全部で六節に分かれている序文のうち、『グラマトロジーについて』に直接言及するのは第五節からだ。もっとも第六節は1ページしかないので、論文の大部分が当該の作品以外について語っているということになる。つまり、これは『グラマトロジー』という作品の序文というよりも、そこに示された思想のコンテクストを大々的に示そうという企図の元に書かれた論文なのである。大胆な形式であるが、このスピヴァクの戦略は成功していると言えるであろう。スピヴァクはデリダに直接挑む前に、その思想の背景にあるニーチェ、ハイデガー、フロイト、フッサールとの格闘を開始する。この手さばきは見事なものであり、噛み砕かれた彼らの思想に対して、デリダの思想が鮮やかに前景化する様を読者は見ることになる。
とりわけ印象的なのは、第二節のニーチェに関する議論だろう。ニーチェ哲学における「隠喩」の問題とデリダ思想の類縁性を指摘する部分は今日読んでも説得力があり、刺激的である。ドゥルーズやクロソスキーといった優れたニーチェ解釈者を擁しているフランスではなく、アメリカでこれほど精緻なニーチェ解釈が展開されたのは類例がないのではあるまいか。加えて、「抹消のもと」というハイデッガーから借り受けたデリダの思想を鍵概念として取り出したスピヴァクは、論文全体にわたってこれを適用し、デリダ思想の解明を試みていこうとする。いささか強引な感もするが、この潔さがこの論文の特色と言えるだろう。バルトやクリステヴァを切って捨てる様は遣り過ぎの感がなくもないが、こうした大胆な振る舞いがこの論文を一貫性のあるものにしていることも事実である。また、デリダのテクストの的確な引用が彼女の論を強固なものにすることに成功している。彼女が当時手に入るあらゆるデリダのテクストを完璧に読み込んでいたことの証とも言える部分である。
とはいえ、この序文は必ずしも易しいものではない。いくつかの哲学的語彙はいまもなお、難解なままに留まっている。また、あまりにも大胆に語られた部分はいささか思想を簡略化しすぎではないかという気も起こさせるし、デリダに対するまったく別の理解の仕方もあり得るだろうとも思わせる。我々はこれを読むことでデリダが分かったと思うことなどとても出来ない、ということもまた確かなことなのである。とはいえ、この序文がデリダの思想の持つ幅の広さを、極めて早い時期にアメリカの読者に鮮やかに示したことは間違いない事実であり、この功績は十分称えられるべきであろう。この新鮮な驚きを追体験するためにも、またスピヴァクの示した斬新なデリダ理解を知るためにも、この序文は今も読むに値するものと思われる。
1.堀田善衛『ミシェル 城館の人』(全三部)(集英社文庫、2004年)
【評者:坂巻康司】(2005年2月8日)
1990年代の初頭、文芸誌『すばる』に長い期間にわたって連載されていた小説があった。それが堀田善衛の『ミシェル 城館の人』である。当時は「いまさらモンテーニュ?」と思った読者も多かったのではあるまいか。しかし、堀田氏が亡くなられた現在、この小説を再び読み返してみるならば、それが著者晩年の最高傑作であるばかりでなく、その文学の総決算であることを読者は確認することになるだろう。スペインに10年間移住し、大作『ゴヤ』を完成させた著者が、満を持して取り組んだのが、16世紀のフランスの哲学者モンテーニュを主人公にしたこの作品なのである。『ミシェル』を読むものは、著者がその文学的営為の中で貫いてきた「乱世を生きる文学者」という彼自身に憑り付いて離れぬテーマが、ここでも余すところなく表現されていることを目の当たりにすることになる。このテーマを追求する堀田氏にとって、西欧中世という時代は格好の舞台であったことだろう。かつて『路上の人』で展開した信仰と政治の中で苦悶する主人公の姿を、今度は歴史上の人物の中に見出し、彼とともに西欧中世(あるいはルネサンス)という時代を著者は生き抜こうとする。そのいつもながらの決然とした態度は、実に堀田氏らしいと言えるだろう。また、氏がこの作品を書くに際して収集した資料は膨大なものであり、これだけのものがあれば優に第一級の歴史小説を書くことも出来たであろう。が、氏は敢えてそれを避けた。もちろんこれが一級のものではないということではない。そうではなく、堀田氏はそうした資料に頼った伝統的歴史小説の手法によることなく、あくまでも自分の目で捉えたモンテーニュ像を作り上げようとしているのだ。堀田氏はモンテーニュを主人公にした偉人伝などを書こうという気は微塵もない。彼が目指すのは、彼自身にとってのモンテーニュ、つまりミシェルであり、それはいまだ我々が知ることのない、歴史上のモンテーニュになる以前のミシェルなのだ。
ここで捉えられたミシェルは沈思黙考する哲学者というよりも、行動する思想家というイメージが強い。この作品において堀田氏は、政治のさまざまな局面において絶えず動いて止まないモンテーニュの姿を鮮やかに描きだすことに成功している。そこに堀田氏自身が実人生の中で置かれていた状況を見ないわけにはいかないであろう。堀田氏はその長い文学的営為の最中、常に政治状況に対して目を配り、発言することを止めなかった。著者はこの作品を書きながら、乱世を生き抜くミシェルの姿に自分自身の姿を重ね合わせたことがしばしばあったに違いない。
しかし、堀田善衛作品の魅力は歴史や政治に対するその透徹したまなざしにあることももちろんだが、それ以上に、著者が常に不思議な愛着を込めて描きだそうとする登場人物達にある、という点も忘れてはならない。その描き方はしばしばユーモアすら感じさせるものだ。実際、ここに描かれるのはミシェルを始め、カトリーヌ・ド・メディシスにしろ、アンリ・ド・ナヴァールにしろ、みな実に人間くさい登場人物である。彼らは決然と行動を起こすというよりも、常に逡巡し、態度を決することの出来ないどちらかといえば愚鈍な人物として描かれている側面が強い。こうした人物達が右往左往しながら形作っていったのが歴史というものではないのか、という堀田氏の問いかけは、彼ならではの独特の趣をもつ見方である。我々は時に漫談調に近づきもするその飄々とした語りの中で、堀田氏の歴史観を味わうことになるのだ。
全体はモンテーニュ自身の『エセー』の三部構成を模したのか、「争乱の時代」、「自然・理性・運命」、「精神の祝祭」の三部に分かれる。しかし、扱う時代が異なるということを除けば、記述にさしたる変化は見られない。著者は、モンテーニュとその時代の有り様を決して焦ることなく、粘り強く語っていこうとする。とりわけ印象的なのは、第三部のモンテーニュの『旅日記』に依拠した、イタリアへの旅の部分であろう。『旅日記』の著者はモンテーニュではなく、その秘書である。著者はここで、この第三者の目を通したミシェルの姿を捉えることになる。不思議なことに、ミシェルへの距離が拡がれば拡がるだけ、我々はミシェルを間近に見ているような錯覚に陥る。至近距離でミシェルを捉えていたときは、彼に対して容赦のない批評を浴びせていた著者の筆致が、彼への距離が拡がると、寛容なものに変わっていくようだ。長い旅を共にしてきた友に対するいたわりの気持ちが思わず出てしまったのだと言えようか。
スペインに生きた画家の生涯を描くかと思えば、乱世の鎌倉時代に思いを馳せつつ『方丈記』を読み、16世紀のフランスの哲学者を描くかと思えば、また日本に舞い戻るという具合に、堀田氏の仕事は、常に西欧と日本を往復することで成立していたと改めて思わされる。そこにあるのは盲目的な西欧崇拝などというものでもなければ、安易な日本回帰でも全くない。氏が常に描き出そうとしているのは、場所にも時代にも限定されることなく生き続けざるを得ないある種類の人間達の姿である。氏は時代的制約と普遍的原理の両方に留意する卓抜な手法によって、彼らの姿を鮮やかに浮かび上がらせようとしている。その試みは大胆で、野心的で、読者の心を常に揺さぶり続けるものであった。堀田氏の新作がもう読めないということが読者にとっていかに残念なことであるかは、氏の作品を読み続けていたものだけが感じることの出来る感情であろう。しかし、我々には残された氏の作品を再び繙くことが出来るという、かけがえのない喜びがあることもまた確かなことなのだ。
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